三つの剣 第一話

三つの剣
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第一話 小野次郎右衛門忠明

元和二年(1615年)。その年。

小野次郎右衛門忠明は大坂夏の陣に道具奉行として戦に加わり目から鼻に抜けるような活躍をした。それは良い。しかしせぬでもよいことも同時にやった。同じ道具奉行であった山角又兵衛、石川市左衛門、中山勘解由、伊東弘祐らを御家人の寄合にて誹謗中傷したのである。当初、徳川秀忠はこの事件を取り合わなかった。小野次郎衛門忠明から剣術を学んでいた徳川秀忠は忠明の気性を良くわきまえていた、とも言える。

豪胆。

と言えば聞こえはよいがとにかく荒々しい。関ヶ原の当時の侍は江戸末期の侍とはわけが違いそれぞれが己の武勇で身を立てていた。己が腕に自信があればこその立身であり出世である。小野忠明も例にもれなかった。それは将軍である秀忠に対しても同じで剣術指南のときにも決して手を抜くことはない。さすがに骨が折れるほど打ちのめすことはなかったが手加減など一切しない。

ある時、秀忠は撃たれた小手をさすりながら恨めしそうに言った。

「次郎右衛門の剣には照りがないの。」

そういわれた忠明は残心の姿勢を少しも崩すことなく返した。

「左様。それがし手を抜きませんからな。」

この時、徳川秀忠はぞっとしたという。それ以上剣について忠明にケチをつけると本当に叩き殺されるのではないか。それほど忠明の目つきは冷たく鋭かったのである。

小野次郎右衛門忠明は永禄十二年(1569年)安房国に生まれた。父は神子上重。母は小野某。幼名を神子上典膳と名乗っていた。十九の時に父とともに里見家の家臣として初陣し正木大膳と一騎打ちをしたが引き分けをする活躍をみせる。典膳は幼いときから武芸に秀でていたらしい。

若き典膳はあるうわさを聞いた。安房国に天下無双の剣術の達人がいるというのだ。その男が今上総に訪れているという。典膳はぜひ立ち合いたいと思った。思った。というよりその気持ちは衝動に近かった。しかし、里見家に仕える身としてはそうそう自由に動くこともできぬ。悶々としたまま三日が立ち、四日過ぎた。

そして五日目の夜。

典膳は父へ暇乞いの書状書き置いて里見家を出奔したのである。

つづく